短編小説 カッコウはもういない

大卒で会社に就職し、一か月が経った頃だ。どこからかやってきたカッコーの鳴き声を聴きながら、趣味の一つである読書の世界を旅していた時、自分の部屋のインターホンが鳴った。無機質で、ラッパのような高さはなく、心躍らない機械的な音。読書の世界から帰還せざるを得なくなり、内心苛つきを感じたが、やってきた人に罪はないのでその苛つきはすぐに消えた。配送屋さんなら仕事であるし、地域の回覧板を回してきた人ならそれはやらなければならない義務だ。ここは地上から五階。エレベーターのないマンション。怒る気にはなれない。鼠色のパーカーと、急な外出、作業にも対応できる青色のジーンズを履いて玄関に向かい、扉を開けた。

 扉の前には女性が立っていた。その女性以外は誰もいない。いるとすれば、どこからかやって来た、年老いたカッコウが、外廊下の手すりに一羽いるぐらいだ。

「こんにちは」女性は緊張した声で挨拶をして来た。知らない女性だった。宗教だとかセールス保険の勧誘に来たのか?と一瞬身構えたが、ビジネススーツは着てない。黄色の紙袋を手に持ってはいる。中には箱らしきものが何個か。白のワンピースを着ていて、柄としてピンクの花が散りばめられている。桜の花だ。今の季節にはよく似合う。とてもとても、これからセールスを行うような格好ではない。空が青く、芝が生い茂る丘の上にピクニックに行くのに適した格好だ。その白の、さくらワンピースに、彼女はジーンズのジャケットを羽織っていた。靴はワンピースとは反対の、黒いパンプス。さほど高くはない。二、三センチぐらい。女性の頭は僕の胸ぐらいの位置にある。腰まで伸びた髪には、染めた跡がなく、陽の光が反射して輝いている。よく手入れをしている証だ。その輝きには、嫌味さはない。

 鼻と口は小さく、目は人形のように大きい。アンバランス、だと思ったが、美しいという感情の方が優った。

「あの……何か用で?」

 緊張が移ったのだろう。小さな声で答えた。

「隣に引っ越してきたものです」女性は指を、僕の部屋の隣部屋を指差す。僕がここにきたのは一か月前。確かに、隣の部屋は空き部屋だった。部屋の扉には名前が書かれている。「北条」と。

「それで、ご挨拶に来たんです」女性ははにんかんだ。それはひどくぎこちなく、そして誰もを虜にしてしまうような笑顔だった。

 いつぶりだろうか?

 そんな笑顔を見かけたのは?

 心の鼓動が速くなり、血潮の流れが激しくなり、部屋に逃げようとしたが、踏みとどまった。それは失礼すぎる。理性をかき集め、頭を冷やし、逃げようとする足を止めた。

「そうですか。わざわざすいません」

 他人行儀の仮面をかぶって対応する。愛想よくできればいいのだが、自分には不得意なことだった。不快に思われる前に、話を早く終わらせたかった。

「これ……引っ越しのご挨拶と思いまして」

 黄色の袋から、小さな箱を渡される。箱の正面には信州そばと書かれている。

 今時、引っ越しそばなんてあるのか?と驚いていると「あの……嫌いでしたか?」と女性は落ち込んだ顔をする。

「いえ……大好きですよ」

 嘘をついた。そばよりもうどん派だ。せいぜい、年越しで食べるくらいで、好んでは選ばない。だが、今目の前で落ち込んでいる彼女を励ますことができるなら、嘘をつく。舌を取られても構わない。

「そうですか……よかったです!」

 またぎこちなく笑った。

 僕は気づかれないように目線を逸らす。

 直視できないほどに眩しかったから。

「これから、よろしくお願いしますね。板垣さん」

 女性はそういうと、次の隣の人の玄関に向かった。僕は「どうも」と小さく、聞こえないように答え、部屋の中に戻った。

 戻る際、年老いたカッコウが鳴いた。

 僕の言葉に応えるように。

 それから彼女……北条さんとは時たま話をする中になった。と言っても、お互いの部屋に行き来したり、どこか洒落た、パンケーキのタワーが出るような、若い女性の好むカフェに行くようなことはない。回覧板を回すときや、朝出社する時に鉢合わせた場合、後はゴミ当番の時ぐらいだ。それ以外に会話をするとこはなかった。彼女が僕の部屋のインターホンを鳴らすことはあの日から一切ない。

「寒いですね」

「携帯型コタツを持ち歩きたいくらいです」

「ふふ……未来の道具にあるといいですね」

「ええ。そんな未来が来たら、大手を振って迎えますよ」

 そんな色気のない会話をするぐらいだ。

 彼女が引っ越しできたのは、大学に通うため。本当は四月に入居したかったが、手違いで一か月遅れたそうだ。

「始発から電車に乗らないと一限に間に合わないんですよ。まいっちゃいます。朝、弱いのに」

 いつの日か、困った顔をして、そんな話をしてくれた。

 僕らは部屋が隣、なだけの隣人だ。

 ただそれだけの関係。

 漫画に出てくるような、恋人になるような関係にはならない。少し前までは、僕も大学生だったが、彼女が遠い遠い、異国にいる存在のような感じがした。触れてはいけない。足を踏み入れてはいけない聖域のような存在にも思えた。だがら、深く関わらないようにした。

 大学を卒業したら、彼女も新しい部屋に引っ越すだろう。大概の人がそうなる。僕もそうだった。彼女も例外なくそうなるだろ。そうすれば、彼女は僕のことを忘れる。時たま、思い出すことはあるかもしれないが、会話の内容までは思い出せないだろ。そうだ。記憶は忘却の彼方に消えていく。それでいい。僕もそうなるのだ。

「就職決まったんです」

 彼女がやってきてから三年半。珍しく雪が降った朝。同じゴミ当番をしていた時に、彼女は僕にそう言った。

「良かったですね」

「はい。就職氷河期と言われているから不安だったんですけど、無事に内定を貰いました」

 彼女は出会った頃も変わらない笑顔で、ぎこちなさが抜けない笑顔で、Vサインを指で作った。  

 勝利の証。

 Vサイン。

 子供らしい仕草で、変わりない。

「おめでとうございます」

 僕はそれしか言わなかった。就寝先を聞くことはしなかった。僕には、関係ない話だから。

 朝のゴミ当番を終えて、僕はマンションに戻った。

「そっか」

 自分を納得させるように呟く。

 応えてくれる、年老いたカッコウはもういなかった。