短編小説 夏の思い出

 車窓から車窓から見える海は青い。都会にある海とは違い、黒く変色はせず、人の手が触れていない宝石のようだ。海と反対の位置にある空も負けずも青い。所々、雲が模様を作っていて青いキャンパスの上に描かれているように見える。煙を出さない電車はその景色を僕に見せながら、北へ北へと、都会から離れていく。乗客は僕以外いなくて、いるとしたら持ってきた黒いキャリーバックと、緑迷彩ミリタリーチックなバッグパックぐらいなもんだ。海という宝石と、空という絵画を一人じめしながら、僕は北へ北へと、電車の中で揺られながら向かっていく。
 たった一羽の、旅ガラスとして。
夏休みが始まった頃のことだ。両親が急に、八月中に、世界一周に出かけると言い出した。世間一般的に、夏休みが一か月あるの学生ぐらいなもので、大人になればせいぜい一週間、悪ければ全くないということもある。僕は青春真っ只中の高校生二年のため、休みは一か月ある。部活には所属していないので一か月と一週間という夏休みは全て自由だ。僕なら可能だ。お金があれば。だが、両親は世間一般とは違う仕事をしている。いわゆる自営業だ。一か月も休んで仕事なくなるんじゃないのか?と心配になったが「この夢のために仕事は全て終わらせてきた!金も貯めた!」と父は夢に向かって走り、夢を叶えた少年のような笑顔で答えた。太陽にも負けない明るさだった。大人になれば毎日、憂鬱なる日々の中で、徐々に徐々に、暗闇だけが顔を覆うと聞いたけど、実のところ、そんなことはないんだろうなと、我が父を見て思う。
「お前も来るか?」と尋ねられたが、あいにく興味がないので「いいよ。二人で行っておいで。それに今からじゃパスポートの発行間にわないし」と答えた。二人で行けばいいし、特に嫌な気持ちもなくそう答えた。
 そうゆうやりとりがあり、僕は一人家で夏休みを過ごすことになったのだが、僕は家ではなく、北の田舎にある叔母の家で過ごすことになった。叔母がこちらの、都会で夏を過ごしたいということで。若い頃、僕が生まれる前、叔母は都会で仕事をしていた。恋愛とかせずに、仕事だけをしていた。母や叔母が若い頃はまだ、男が働き女が家にいるということが常識だったのに、叔母はその常識という集団的圧力に屈することもなく、また同調することもなく、無視し、自分の心の命ずることを貫いた。結婚はしていない。
「私は孤独が好きなのよ、きっと」その言葉が叔母の口癖だった。諦め切った声ではなく、未来に希望を抱く冒険者のような声で。
「でもたまには、都会暮らしに戻ってみたいこともあるのよ」という叔母の理由で、僕は夏休みの時間を田舎で過ごすことになったのだ。流石に一か月も家を空けるわけにはいかない。
「田舎暮らしね。僕はまだ青春真っ盛りだよ」青い海に向かって拗ねたような口調でそう言った。内心は別である。むしろ、ワクワクしているのだから。
 電車のスピードが緩まり、やがて止まった。駅に着いたのだ。僕は一カ月ぶりの着替えの入った黒のキャリーバッグと、できれば置いていきたかった夢も希望もない宿題の詰まった学生鞄を持って、電車から降りた。
 駅のホームには小さな木の小屋に青いベンチが一つ。小屋の横には白い自販機。それ以外にあるのは「佐上」という駅名を表す看板ぐらいなものだ。看板は真新しく、雨の汚れなどはない。最近、変えたのだろう。キョロキョロと周りを見渡していると、電車は僕を置いて、次の駅に向かった。段々と遠くなり、やがてユラユラ揺れる陽炎と混じって、僕の視界から消えて行った。
 改札口に向かう。自動改札はあるけれど、駅員は誰もいない。乗車券は駅の入り口壁際に置かれた自動切符売りで買うようだ。
 ここは無人
 僕以外、今はここに誰もいない。
 自動改札を通り、駅の外に出ると山が見えた。木が茂った山々が僕を迎える。禿山はない。高く、空に向かって背を伸ばす鏡が敷き詰められた人工物もない。あるのは山。そして田んぼぐらいだ。
 空を見上げるとトンビが一羽飛んでいる。
 耳をすませなくても、蝉の声、アブラゼミだろ。あちらこちらで必死に鳴いている。
 舗装の剥げた道路を渡り、僕は田んぼ道を歩く。田んぼ道を抜け、森を抜け、やや急な坂道を登ると、開けた場所にでた。開けた場所の真ん中には平家の家がある。といっても日本古来の家屋ではない。アメリカ西海岸とかにある、映画のロケに使われそうな白い壁の家だった。屋根は紺色。場違いなように見えて、ひどく違和感がない。そこにあるのが当たり前、という顔をしている。初めて見る人なら驚くことだろ。なんせここはアメリカ西海岸とは程遠いのだから。海は繋がっていても、水平線には姿形も見えないくらい遠いとおい、異国なんだから。
 ジーンズのポケットから、叔母から渡された鍵を取り出し、僕は玄関の扉を開く。キィーと僕を歓迎する声だ。黒いキャリーバッグを玄関のたたきに置き、お気に入り鼠色のスニーカーを脱ぎ捨て、僕は床に足を置く。何度もここに来ているから、今更新鮮さはない。僕は廊下を歩き、リビングに向かった。リビングには茶色の古びたソファー。何も映っていないテレビがソファーの前にある。ちょうど良い距離だ。背負っていたミリタリーチックなカバンをソファーに脱ぎ捨て、僕は庭に続く窓を見る。
 海が見えた。
 木が見えた。
 そして、女の子がそこにいた。
 女の子は僕の見ると、目を見開く。染めた形跡が一度もない純粋な黒髪は枝毛なんてとは無縁なくらいで、腰まで伸びていた。目はクリクリと大きく、化粧の輝きがない。鼻は高く、口はリップでも塗っているのか、ややピンクになっていた。見に纏うはセーラー服。古き良き、昔ながら。都会に住んでいる僕からしたら真新しく見えた。 
 女の子は見開いた目を細め、ズカズカと、喧嘩腰でこちらに歩み寄ってきて窓を開けろ!と鍵を指差す。
 きっと泥棒か何かと勘違いしているのだろう。
 勇しい子だなと思うと同時に、無用心だなと心配になる。僕は鍵を開けて窓を開く。フワァーと、冷房の冷たさとは違う涼しい風がすぐに、リビングの中で溢れた。
「お前、泥棒か?」
 予想通り。敵意のある瞳と言葉が僕を撃ち抜いてくる。
「違うよ」
「証拠は?」
「泥棒だったらわざわざ鍵を開けて君も話をしないし、それにこの距離だったら君を羽交い締めにできるのに、しないことが証拠だよ」
 手を伸ばせば、彼女を自分の胸に抱き寄せることが簡単な距離だ。
「うーん。たしかに。それに泥棒だったらこんなに堂々としていないか」
「そうだろ?」
 僕は生徒に語りかける先生のような声色でそういった。
「それじゃあ、何者?」
「通りすがりの高校生」
「……ふーん」
 冗談が通じたのか、彼女の目からだんだんと敵意が消えて消えて、綺麗な黒い瞳がはっきりと見え始める。
「まぁ、ここに住んでいる人の親戚だよ。夏の間留守にするから居てほしいと頼まれてね」
「あぁ……そう」
「そうゆう君は?」
「通りすがりの女子高生」
 ニヤリと笑って返される。
「中学生?」
「違う!女子高生!見りゃわかるでしょ⁉︎」
「わかんないよ」
 怒りを露わにする彼女をケラケラと笑って、僕は窓の外を見る。遠い視線の向こうに、青い海が生きている。
「それで君はここに何をしに?」
 僕は海から彼女に視線を戻す。
 不服そうにも「あんたの世話を頼まれたのよ」と答えた。僕は一瞬思考が停止する。そんな話は誰からも聞いていない。
「誰に?」
「東村さんに」
「叔母さんが?」
「えぇそうよ。甥っ子の世話をしてほしいって。なんでも未だに夜にトイレに行けない小心者だとかで」
「んなわけない!」
「本当に?」
「僕は高校生だぞ!」
「中学生じゃなくて?」
「あぁそれ僕が言ったこと⁉︎」
「お返しよ、お馬鹿さん」
 今度は彼女がケラケラ笑ってくる。お嬢様なんて程遠い、腹に手を当てて、低い笑い声を部屋に響かせる。
 あぁくそ。
 馬鹿にされているのに、可愛く思うのはなぜなんだろうか⁉︎
「……別に世話なんかいいよ。自分でやれる」
 僕はハエを追い払うかのように手を動かし、意思を伝える。女性に対してその態度は紳士としてどうなのか?と思うが、自分の今、胸の中で沸騰する気持ちを知られるわけにはいかないので、僕は彼女から嫌われるようなことをする。
「無理よ。お駄賃もらってんだもん」
「……その倍払う」
「払えんの?」
「あぁ。これでもバイトは同い年の子よりもやってる」
「ふーん。それじゃあ」
 彼女は指を動かし、金額を教えてくる。
 僕は一から数え、途中で数えるをやめた。
 暑い夏の下、僕は彼女に負けたのだ。


「ほい、そうめんだよー」

 リビングのソファーから海を眺めていると、彼女……名前はあかりと言うそうだ。苗字は教えてくれなかった。
 あかりが透明の、丸いガラスをもってやってくる。
 ガラスの中には氷と水と白い素麺。
 あぁこれこそ夏、日本の夏、といえる食事だ。
「……」
「何?文句あんの?」
「もっとこう、シャキシャキ田舎の野菜サラダとか出てくるもんかと」
「ほんなら、自分で畑に行って収穫したら。働かざる者食うべからずよ」
「君は叔母さんからお金もらってるんだから、手の込んだ料理を出すべきじゃないのかい?」
「やーよ。めんどくさい」
「……そうかい」
 無駄なことがわかり、僕は文句を言うのをやめることにした。このまま言い続ければケンカになる。彼女のことはよく知らないが、モノを投げてきそうだし、止めようとして嫁入り前の女の子に怪我なんかさせてしまったら、僕はお天道様の下で堂々と歩けなくなる。
 それに、作ってもらったのは事実だ。ズボラな自分には素麺を茹でるのもかったるい。
「ありがとう。いただきます」
「最初からそういえばいいんよ。あたしも食べよ」
 僕らは二人、リビングの椅子に座って素麺を食べる。
 ズルズルと、ピチャピチャと音をたてながら。心地よいハーモニーとは程遠い。
「ねぇあんたさ」
「何?」
 素麺が喉を通って行く。
「セックス……したことあるの?」
 そして、通行止めにあった。
 むせにむせて、素麺のいくらかは喉から口に、そして外界に飛び出した。
「汚いな」
 彼女は山積みになったゴミ袋を見るような目をする。
「誰のせいだよ、誰の⁉︎」
「ふーん。その反応を見る限り、したことはないと」
「そうとは限らないじゃない」
「じゃああるの?」
「……」
 通行止めになった喉を素麺が通り行く。
「ないんだ」
「……なくて……悪いかよ」
「別に。都会の人なら経験も早いのかな?と気になっただけ」
「……まぁ真実かどうかは知らないけど、クラスメイトの何人かはしたことがあるみたいだけど」
「ふーん。なるほどなるほど」
「そんなこと気にしてどうするの?」
「うん?あぁここ田舎じゃん。恋愛に陥るような魅力的な殿方を見つけたくても、同い年の子いないのよ。近い上も下も。だからそうゆー話をする相手もいないわけ。それで興味がある。それだけよ」
「高校に行ってるなら、話をする友達がいるんじゃ」
「いないよ」
 彼女はそっけなく答えた。どうでもよさそうに。
「気が合う人はいないから」
「そうなの?」
「うん……あんたはさ。そらはどんな色がすると思う?」
「そら?」
「あぁここから見える青空じゃなくて宇宙の方ね。宇宙はそらとも読むらしいから。んであんたはそらを……宇宙をどんな色をしてるように見える?」
「……黒かな」
「そう。あたしは青に見える。海みたいな青に」
「……」
 彼女は可笑しそうにはにかんで、その理由を口にする。少し恥ずかしそうに。
「黒なのはわかるよ。間違いじゃない。それを正しいという人のことをとやかく言ってもいい理由はあたしにはない。だけど、あたしは物心ついた時から、宇宙の色は青に見えるのよ。海みたいにね。なぜかわからないけど。でもそれを口にしたら、みんなとても不思議そうな顔をする。うーんそうだね。古代遺跡にあるよくわからない象形文字?だったかな。あれを見ているみたいな顔をしてさ。まぁそれはいいんよ。いいんよ。でも時々、あたしのことを変だと言って攻撃してくる人もいるからさ。まぁ、まいちゃうわけよ。あたしもさ、別に漫画に出てくる主人公じゃないわけで。オラオラ!と言って殴り飛ばすわけにもいかないし」
「それができたら、最高だろうね」
「お?あんたも漫画好き?気が合うね」
「お小遣い少ないから、単行本じゃなくて週刊誌の方しか買えないけどね」
「それもおんなじ!」
 いやー気が合うねー、と言ってあかりは上機嫌に素麺を啜る。白い川ができるくらいにさ。
「あのさ」
「ふん?」
「君の言ってること、別におかしくはないと思うよ。目で見たわけじゃなくて耳で聞いた話だけどさ、火星の空は、昼間は赤いらしいよ」
「……そうなの?」
「うん。で、夕方になると空は青くなる。僕らのここみたいに……まぁ何がいいたいかというと、僕らの思ってる常識は世界が変われば違うって話。君と僕の中、心の中にある世界は違うわけで、同じに見えるものもあれば違うように見えるものもある。君は宇宙が青く見えでも僕には黒だ。だけどさ、それが何が悪いことをしているとは思えないよ。別に君は、自分の世界を他人に押し付けて、土足で荒らしているわけじゃないのなら、君は正しいと僕は思うよ」
 僕は彼女から窓の外の空を見る。
 青い青い空。
 でも世界が違うならまた違う色なんだろ。
「ふーん」
 僕は彼女に視線を戻す。
 ズルズル、と彼女はまた素麺を食べ始めて。
「あんたって、変なの」といたずらっ子のように笑うのだ。
「それ、君が言うこと?」
 笑いが起きた。
 風鈴が揺れた。
 僕らは笑っていた。