黄金の旅

 誰もいない駅のホーム。私は一人、東京に向かう新幹線を待つ。太陽は東から生まれたばかりで、昼間よりも神秘的に輝いている。昼間なら暑さで鬱陶しいと思うのに、朝に生まれた太陽には、そのようなイラついた無駄でくだらない感情は抱かない。赤ん坊が生まれた時もそう思うのだろうか?私はまだ一人で、恋人もいない。好きだった女性がいたのはもう5年も前のことだ。青く青く、社会という閉鎖的で沼の淵のように湿った世界なんて知らず、ただただこの先にやってくるであろう、未来に憧れていた。その時の私は苦労なんて知らず、好きだった女性に結婚するつもりで告白した。答えは2年待って欲しいだった。私は待った。それがこだわりの言葉であることを知らず、自分が家庭を持つことに幸せを感じ、その時が来るために欲しいものを我慢し、貯金をした。結婚できるほどのお金は貯まった。だけど、その人はもういなかった。見えない風のようにどこかに消えて、はっきりとした声も今はノイズが入り、もはや本当にその声だったのかどうかも思い出せない。あれから誰にも恋はしていない。どれほど純粋な気持ちで、汚れのない清水のような気持ちであっても、相手はそうやって裏切るのだ。私の気持ちは汚れてしまい、もうあの時の清さはない。あとは流れるまま。まだまだ遠い死を待つばかりなのだ。
 そうだ。
 あとは消えてしまうだけだ。
 そう思っていたのに、私は今、旅に出るために新幹線という船を待つ。まるで、黄金を探して航海にでる旅人のように。
 誰も知らない場所に、自分の好きなものを探していくために。私はまだ終わっていない。
 風が揺れた。
 船がやってきた。
 時速300キロの、陸船が。
 鞄を手に持つ。入っているのは、下着と上着、あとは一冊の本。
 一人で旅に行くのはそれで充分だ。
 船の入り口が開く。太陽はまだ神秘さを保ちながら、私を見守っている。船に乗り込むと、ズボンのポケットからチケットを取り出して座席を確認する。朝早いこともあり、私と同じ旅人は少なく、席はまばらに空いている。
 富士の山が見える席を予約した。チケットと睨めっこしながら座席へ。私の窓際の席から横二人分は空席だ。席に座り、鞄を上に置かず私の足元へ。大した重みではないし、また嵩張ることもない。ピッタリと、私の両足の間に挟まる。そうこうしていると、船が動き出す。昔の汽車のように汽笛を鳴らすことはない。ゆっくりと走り出し、徐々に徐々に加速を始めていく。振動は幾度ない。時速はすでに100キロを超え、やがてプロの投手が投げる球よりも速く速くなっていく。それなのに、振動は幾度ないのだ。まるで、木漏れ日の中、揺れる椅子のように穏やかだ。私は移り行く景色に目を向ける。山、空、都会、また山が見えて、何度か駅に停まったあと、富士の山が見え始めた。春が過ぎ、少しずつ夏の気配を身で感じるようになってきたのに、富士の山の頂上は変わらず白い。そこだけ、何者にも干渉されないかのように。
 富士の山を過ぎて、田園畑が都会のジャングルに変わっていく。
 私はチケットを無くしていないことを確認し、足元に置いた鞄を両手で抱える。
 船はゆっくりゆっくり速度を落とし、港といえる駅に着くと、その行き足を止めた。
 私は抱えた鞄を手に持ち、降り口へ。
 本格的な旅の始まりを知らせるように、ホームへ降りた。ホームに降りると、ビルの合間を抜けた風が頬を撫でる。都会の風は味気ないと、どこかの偉人がいいそうな言葉を頭に浮かべるが、住んでいる場所とそう変わらない。何を持ってそう考えるのかよくわからない。ここに住めば、私もその考えに至るのかもしれないが、私はここに移住してきたわけでも、上京してきたわけでない。ただ旅先に決めた場所がここなだけなのだ。むしろ、新鮮で心地がいい。
 鞄を手に持ち、私と同じ旅人、あるいは住む場所に帰ってきた先住者に続き、私は駅の中に向かった。人人人人、とどこから湧いてきたのかは知らないが、私の目には人しか映らなくなる。飲み込まれないように改札口へ。改札口に出れば人の波は少しばかりおさまったが、今度は地下迷宮への冒険が始まった。出口という矢印に従っても、日の光は一向に見えないし、ここではないじゃないのか?と疑問に思い、元の場所に戻っては違う矢印に方向に歩く。幸いにも、ここには生贄を求めて彷徨う半獣の神もいない。私は焦りだとか命の危機的状況の際に出る第六感を働かせるようなことはせず、むしろ楽しんで地下迷宮を歩く。かけのないサイコロを、自分の好きな目が出るまで振り回すように。30分ほどして、ようやく私は地下迷宮からの出口に到達し、日の光を浴びた。
 東京駅正面。
 その赤煉瓦の建物は時代に取り残されたような姿をしながらも、輝きを失わず、私の心に旅の良さを教えてくれた。

見上げると、青いキャンバスに白い雲が不揃いに塗られていた。到底手は届かず、逆立ちしても、私は地面から飛び立つことも、あの雲に触れることはできない。飛行機を操縦すれば、人生の内、何度かは彼女たちの近くで微笑みを浮かべて悠々と泳げるかもしれないが、私にはそんなことをできる力はない。せいぜい、労働で得た金で陸を行く船に乗り、旅をするくらいしかできない。車もいいが……着いたら疲れてそれどころではなさそうなのでやめておく。
 東京駅を一枚二枚と納得のいく写真をスマフォで撮り、私は再び駅内へ。今度は地下迷宮に潜るわけではなかったので、迷うことなく山手線ホームへ。山手線ゲームというものがあるが、それがなんなのかはちっともわからない。
 ホームに電車がやってきた。
 私の目の前で止まり、扉が開く。
 私は乗ると、椅子に座らず、反対側の扉に背を預けた。電車はゆっくり動き出す。何度か駅を通過した。やっぱり、山手線ゲームというのはちっともわからない。そうこうしていると、目的の駅に着いた。田舎の無人駅などとは違って人の数が違う。気を抜けばあっという間に飲み込まれてしまう。規則正しく、迅速丁寧に、降りる人に続いて自分も降りる。人にぶつかることなくスムーズに改札口を通り、乗り換えする地下鉄に向かう。東京駅の地下迷宮とは違って入り組んではおらず、行き先は分かりやすい。しかし、迷いとは違う、暑さという困難が私に襲い掛かる。まだ夏には程遠く、鶯が懸命に、恋人を誘う歌声を練習している季節なのに、夏の湿り気の、あの心地よくない、できれば心が感じない場所にいて欲しい湿り気が私に遠慮なく襲い掛かる。
 あぁ暑い。アイスか炭酸が恋しくなる。
 透き通った透明の水を喉の奥に住まう生き物が求めてくる。
 小銭を取り出そうか悩んでいると、地下の奥から笛が聞こえてきた。
 半獣の獣ではない。人が作った船だ。
 地上と変わらず、私の目の前に止まる。
 中は冷たく、しばしばの、湿気の攻撃から逃れることができた。窓の外を見ても暗黒しかない。ほのかに光るものはあるが、空の青さ赤さに比べたらいい小さな小さなもので、私以外は誰も気に留めない。地下鉄というものは滅多に乗らない。私の住む場所にはない。大阪や名古屋、ここ東京みたいに都会ではないと、地下を走る鉄製の蛇は住処がない。ほのかな光に、どこか懐かしくも物悲しい気持ちになりながら、ボーとしていると降りる駅に着く。乗った場所と違い、明るく活気がある。地上に出れば観光客で溢れていた。近くに雷門があるからだ。そこに行こうかと思ったが、私の目的地は違う。その場所の最寄駅、というよりも間近に着く電車に乗り換えず、私は寅さんの匂いがする雷門に背を向けて、大きな川、隅田川に架かる吾妻橋を渡る。
 そうすると、目的の場所が目に入る。
 東京スカイツリー
 距離の間隔がバグるほどの大きさで、静かに雄大に聳え立っている。それは、天へと続く階段のようにも見える。あるけどあるけど、距離が縮まらない。それでも、辛いとは感じず、むしろ楽しんでいる私が、都会の中にいる。15分ほど歩き、私はたどり着く。スカイツリーは私の目の前で変わらず聳え立つ。人が作った叡智の結晶。尊大な姿だが、まだ真新しいこともあり、情緒の匂いはまだない。チケットを購入し、エレベーターへ。時速30キロは超えるスピードを出しながら空に登っていくのに、揺れひとつない。陸路をゆく船のように。エレベーターが開くと、私は空にいた。下を見下ろせば、私たちの生まれた大地がある。
 高い。落ちれば、私はあっという間に命を落とすだろ。しかし、それが頭で分かっていながらも恐怖はない。そんな、あるかどうかもわからないことよりも、空の中にいることの方が重要だ。鳥のように自由に飛び回ることはできないが、私は空の中にいることに興奮とは違う嬉しさが、心に溢れている。
 さぁー、と周りを見渡し、海や赤い東京タワーを目に焼き付け、お土産コーナーへ。
 一枚のポストカードを購入。
 旅の思い出にはこれだけで充分だ。金色のメダルにもそそられるが、むかし遊びに行ったテーマパークで集めた金貨は今、赤く錆びてしまい、それが何を表しているのかさっぱりわからない。それを見ても、私は遊んだ記憶を呼び覚ますことがない。この金色のメダルがそうなるかどうかはわからないが、私はポストカードを選んだ。これなら机の上に飾ることができる。記憶を呼び起こすことも容易だ。何より安いし嵩張らない。それは素晴らしいことだ。
 一枚のポストカードを鞄に入れて、私は地上に戻る。翼をもがれたわけではないが、どこかちょっと寂しい気持ちになった。

 ここ東京に来てから飲食をしてないことを地上に戻ると思い出し、腹の中の私が食を求め始めた。何かないか?と最寄りのショッピングモールに入る。レストラン街に行くと、うなぎ、鰻重のお店が目に入る。腹の中の私が暴れ出す。江戸といえばうなぎである。迷うことなく、お店の暖簾をくぐる。二人用の席に案内され、私は鰻重を注文する。季節限定の和菓子もあるとのことでそれも注文する。ここにもし身内がいたら止めてくるかもしれないが、この旅は私一人、止めるものはいない。そもそもせっかくの旅行なのだ。贅沢することに躊躇することも悩む必要もない。ここには私を知る人は誰一人いない。私は自由なのだ。雨の中で、傘を差さずに踊る人のように。
 しばらくすれば鰻重が運ばれてくる。
 タレは少なめ。山椒はお好みとのこと。
 一口食べる。柔らかい。フワフワ〜とした食感。さっぱりとしていてしつこくない。タレが多いのも美味いが、それだとうなぎとお米の味が少なくなってしまう?何口か食べてから山椒を。ピリッとした辛さが胃の中にいる私を刺激する。5分もすれば、鰻重は姿形もない。季節限定の和菓子と緑茶を飲みながら、ゆっくりゆっくり幸せを噛み締める。
 食べ終わり、飲み終わり、もう一つ頼もうかと思ったが、旅先で胃痛など笑い話にもならないのでやめておく。気持ちのいいまま会計を済ませ、ショッピングモールの外にある最寄りの駅から電車に乗り、私は地下鉄に戻る。黄金に旅はまだ続く。また暗黒の中、鉄製の蛇に乗り、ぼーと灯りを見ていた。
 次の目的地に向かう間、船の甲板で海を眺める人のように。