短編小説 星間旅行

「太陽系の星ならどこに旅行したらいい?」
金曜日の夜、仕事から解放されたみんなが、普段は隠し持っている背中の翼を広げで賑わう繁華街。その片隅にある、どこの街にもありそうな居酒屋で、目の前の席に座るカノジョはそう聞いてきた。
「旅行も何も行けないじゃないか」
 僕は気だるい気持ちを声に混ぜて答えた。
 彼女は僕の返答が予想していたからか、眉を顰めることもなく、また青筋という怒りを示すことはない。
「相変わらず夢がないな君は。そんなことだとすぐにお爺ちゃんの仲間入りだよ」
「アポロが月に行ったのは、そのお爺ちゃん達が今の僕らと変わらない年だった時のことだよ。君はテレビを見て、誰かが月に行ったのを見たかい?残念だけど、アポロ以降は誰も月には行ってない」
 世界初の有人宇宙飛行をしたのはユーリ・ガガーリン。そのあとに続いて、アメリカはアポロ計画を実行し、人類は月に足を踏み入れた。それ以降は誰も月には行ってない。地球の周りには何度も、宇宙飛行士がロケットという名の夢の結晶に乗り込み訪れてはいるけど、月には……月以外の惑星には、人間の生足、足跡が刻まれたことはない。僕たちにはまだ宇宙は遠すぎる。かつて僕らと変わらない人たちが歳を重ねて、老人になるほど時の重なりが起きても、僕たちは地球の周りをグルグルと回って、離れられない。星間旅行など、机上の空論でしかない。
「それに行けたとしても水星は灼熱地獄、他に行けたとしても燃料が足りない。それでも……君は危険がわかっていながら旅行に行きたいのかい?」
「あなたは行きたくないの?」
「可能性があるなら行ってはみたいさ……待ってくれ。何で僕も行くことになるんだい?行くのは君だろ?」
「付いてきてくれないの?」
「悪いけど僕は地球が好きでね。ここから離れるつもりはないよ」
「そんな……中学の卒業の時言ったじゃない‼︎私と星々を周る旅行しようって‼︎」
「言ってないよ!記憶を勝手に捏造するな!君と会ったのは高校の入学式が初めだろ‼︎」
「知らないわ」
「僕はちゃんと覚えてるよ!」
「ふーん。ちゃんと、覚えてるんだ」
 ケラケラ笑って、氷が隙間なく詰められた透明のコップを口に運んでいく。入っているのは水。彼女はスコッチしか酒を飲まない。
「憧れの諜報員さんに近づくためよ!」とのことだが、彼が飲むのはジン3ウォッカ1キナリレ(日本では取り扱っていない)2分の1を混ぜ、キンキンに冷やしたものだ。カノジョが自宅で作るスコッチハイボールは非常に炭酸水の割合が多い。それに加えてコップに隙間なく氷を入れる。今飲んでる水みたいに。僕も飲んだことはあるけど、正直、あれはただの炭酸があるだけの水といっていい。彼女はそれを一杯飲めば天国の温泉にでも使ったかのように酔っ払う。もし、憧れの諜報員が好む酒を飲めば、それはそれは、聖歌隊とは程遠い濁音まみれの歌声を聴きたいと言ってもないのに吐き出すだろ。アルプスで歌えば山脈に住む精霊達が怒りをあらわにするか、あるいは聴こえない場所に逃げ去るほどの騒音になるだろ。僕にとっては不愉快極まりないもので、できるならば壺に入れ、お札を貼り、50メートル掘った穴に隠したいほどだ。だから僕は、憧れの諜報員が好む酒のことは口に出さない。バレる心配はない。映画を一緒に見た時、バーテンにその酒を注文するセリフのシーンでは、隣にいたカノジョは「何の暗号なんだろ?」と目を丸くしていた。
 あぁ、そのままの君でどうかいてくれ、頼むよお願いします、と僕は初めて神に祈ったものだ。
「覚えてない方がおかしい。君は僕の隣の席で、今と同じ質問をしたんだから」
「あの頃はオドオドして可愛かったのにな。今となってはどうでもよさそうな顔するし」
「君の中を知れば、誰でもこうなるよ」
「……つまんないの」
 不貞腐れ気味に鳥の軟骨を口に運ぶ。だけど、それだけで、カノジョは不快な顔をやめてしまう。コロコロと変わる表情は季節の変わり目よりははるかにわかりやすい。今は鳥の軟骨の旨みに顔を緩ましている。
 僕はそんなカノジョの顔を見ながら、自分の頼んだハイボールを運ぶ。スコッチではないけど、僕の好む酒だ。誰かさんのせいで。
 酒を飲むと一時間二時間はあっという間に過ぎていく。彼女の現実感のない夢の話を、力のないメトロノームのような相槌で答え続け、僕らは日の変わる直前まで食事を続けた。彼女を家まで送り届け、終電一本前の電車、僕は席に座らず、冷たい金属の扉に背を預けて流れ去っていく街を見る。十年前と変わらない街並み。変わったものといえば道路を走る車の形。昔よりも丸みが多くなった。歩く人。流行りの服は毎年変わって過去になり、好きで着たのに嫌いになったりする。それぐらいのもんだ。あとは看板ぐらいだろ。
「星間旅行ね……」
 夜空を見てもここは都会。星の光は、街の光に負けて姿を現さない。月は気にせず、街を照らしている。夜空も変わらない。ずっと、星の光は目にしていない。
「……行けるならどこへでも。できれば誰もいないところに」
 初めて会った時と同じ答えが変わらず、僕の中にある。どこに行っても、あの喧しくも可愛らしい顔は見つけれるだろ。一度行けば、重力に引き込まれて地球には帰れないかもしれない。燃料が足りないから着いたとしてもかえれはしないだろ。それでもいい。そこに行けば、独り占めできるのだから。
 扉に背を預けて、夜の街と暗い星空を見る。
 いつか、電車で星間旅行ができることを願いながら。