短編小説 大人になりたい僕

 朝は混む。どこもそうだ。少し時間をずらしても、電車もバスも鮨詰めだ。深海にいるような息苦しさ。辛うじて、息はできていても生きた心地はしない。それがわかっているのに、僕らは生きていくために、その中に身を任せなければならない。

 大人に早くなりたい。

 そうしたら、自分の車を買って、この中に身を任せる必要はないのだ。

 そして、それ以上に、僕の心臓を殺すような、残酷で、どうにもならない事実からも目を背けたい。

「おはよう」

 鮨詰めの車内で、彼女はいつも僕にそう言ってくる。高校進学と同時に始まった電車通学。徒歩や歩きで行くのには遠すぎるからだ。本当は嫌だったし、今も変わらない。だが、そうしないと、僕はこの先の人生で弾かれる。人間なんて、他人のことは気にしないと口にするけれど、実際自分の目の前に、自分が理解できない事情を持つ人間が現れたら、弾いて飛ばして、関わらない。

 僕は我慢するしかなかった。最寄で受かる高校は、そこしかなかったのだから。

 そんな鮨詰めの、深海の中で、彼女は酸素ボンベを運んでくる。真っ暗な暗闇の中で、彼女は一つの光、希望を持ってきた救世主のような顔をして、僕に「おはよう」というのだ。

 彼女の名前は知らない。僕も自分の名前を教えていない。学校も違う。ただ知っていることがあるとすれば、同じ時間に、同じ電車に乗り、深海に潜るくらいなものだ。

「今日も混むね」

「いい加減なれたいよ」

「全くだね!今日も頑張ろ!」

 そんなやりとりが、毎朝の、土日と祝日を除けば日課になっていた。

 あとは着くまでの15分。昨日見たテレビやネットの話をするだけだ。

 遊びに行こうと言ったことはない。

 名前も知らないのだ。

 それ以上は踏み込む気にもなれなかった。

 15分、深海に潜り、僕らは浮上する。

 ゾロゾロと、車内から出る人の波に乗りながら。

 改札口を出て、僕らはお互いに「じゃあまた明日」と言って、別れる。

 不思議なことに、帰りの電車で同じになったことはない。

 同じ駅で降りるのに。

 でも、その方が幸いなんだ。

 僕は彼女と反対の道を歩く。そしたらさ、後ろからまた「おはよう」という声が聞こえるんだ。僕に対してじゃない。僕に対してよりも明るい声。

 いつの日からか、その声が背中から聞こえるようになった。最初は振り向いた。でも、僕はもう振り向くことはない。

 後悔やら、憎しみやら、自分ではコントロールできない感情が溢れそうになるからだ。

 あぁ、ほんと早く大人になりたい。

 そうすれば、こんな気持ちとも、心臓を潰されるようなこともないのにな。