冬の、ある夜

 家の近くの坂を降りるとカフェがある。個人が経営する店ではなく、全国区なチェーン店。厳密に言うと、ついこの間全国区になったそうだ。朝のラジオから流れるしわがれた男の声がそれを教えてくれた。仕事柄、愛想がしわがれた声の中に混じっていた。だけどよく耳をすませば、言葉の端々には興味のない気配が漂っていた。
 ゲストで呼ばれた女性が「このラテ。毎朝飲んでるんですよ!」とか「今年の秋は栗のフラペチーノを友達と飲んだんですよ」と明るい黄色な声を発しても、しわがれた声の男は「ほうほう。そうですかそうですか」と朝に鳴く鳩のように答えるばかり。自分の将来の話を、興味なさそうに聞いていた父さんによく似ていた。父さんはいつも三つ年上の姉のことばかり考えていた。
 嫌なことを思い出して、ラジオを消した。
 嫌なことはいつでも鮮明に思い出す。昨日、恋人と別れた僕を慰めた友人たちとのカラオケや食べたものとか、楽しいことはあまり鮮明に思い出せない。
 人という生き物は、命を守るために嫌な記憶をよく覚えているそうだ。だけど、僕らはもう森の中に潜み、意思疎通ができない獣を狩ったり、倫理のない同じ姿をした怪物に襲われるような時代には生きていない。そういった時代は、もう古びた文献にしか残されていない。
 今の時代にはコンピューターでいうバグみたいなものだ。
 邪魔で不愉快。
 大人になればなるほど尚更。
 まるで、死を呼ぶ呪詛のようだ。
 くたびれた二人分のソファーに座り、星の見えない外を見る。部屋の中は、木で出来たコンポから流れるピアノとサックスの音が響くけど、僕の頭の中には「あなたとは将来、うまくいかないと思うの」という言葉がグルグルとメビウスの輪を作っている。
 その輪を断ち切ろうとソファーから立ち上がり、寝室のベッドの枕元付近、間接照明の置かれたナイトスタンドの戸棚を開ける。開ける時、ナイトスタンドに置かれた写真立てが前に倒れて、思い出を写さなくなる。昨日までなら未練たらしく直したと思う。だけど、もう僕にはその写真が、ただの価値のない紙切れにしか見えなくなっていた。そのまま放置して、戸棚の中に手を入れる。ここにも、もう用がない小さな緑の箱がある。質屋に持っていけば、買ったときの、半分くらいの価値はあるだろ。その小さな緑の箱に入ってるものは、誰も手につけてないのだから。
 ガサゴソと指を動かし、タバコを取り出す。
 長いこと禁煙していたけど、もう誰も気にする相手はいない。タバコを手に持ち、ベランダへ。
 冷たい冬の風が頬を打ち、裸足を凍らそうとするけど、僕は気にせずにタバコを一本取り出して、一緒に入ってた百円ライターに火を灯す。カチカチと何度か音を鳴らして、淡い光が僕の手元に生まれる。生まれた光はタバコに移り、煙が僕の周りに漂う。煙を吸い込む吐き出す。その行為を何度か繰り返すと、タバコはすっかり役目を終えて、ただの灰になる。
 何も気持ちは浮かばれない。
 漂っていた煙は、風と共にどこかに旅立つ。
 禁煙していたせいなのか、味がよくわからない。
 携帯灰皿にタバコを捨てて、夜の街を見る。
 二人で歩く人。泥酔している人。信号待ちの車に、右折する車。見知らぬ人々。近くに住んでいるのかもしれないが、誰も知らない。
 地上から四階のベランダ。
 顔の知らない人々を、蟻の巣を観察するように眺める。
 坂の下のカフェはまだ開店している。
 もう一本、タバコを吸おうと箱を開けるがすぐに閉じる。そんなことをしても、何も変わらないのがわかったから。
 ベランダから部屋の中に戻り、タバコの箱を食事用の机に置いて、財布をズボンのポケットに忍ばせる。
 坂の下のカフェに向かおうと思ったからだ。
 部屋で一人でいれば、辛い思い出ばかり甦るから。
 部屋の電気を消して、玄関から外に出ると頭の上にひんやりとした感覚が走る。
 真っ暗な空から、天使からの祝福のような、透明な結晶が降ってくる。雨のような自己主張もなく、ゆっくりと、存在を感知させないように。
 久しぶりの雪。
 子供の頃以来の雪。
 右手の手のひらに結晶を乗せてみる。
 すぐに溶けて、水となり、僕の皮膚に入っていく。
 明日は降り積もるかも。
 雪だるまを作るのも悪くない。
 呑気なことを考えて、家の前の坂を下っていく。
 音もなく降る雪が、他の人の生き音を吸っていく。
 どこかひとりぼっちの気分。
 なのに、部屋の中にいる時よりも穏やかだ。
 坂を下り、灯りのあるカフェに入る。客はまばら。誰も彼もが突然降り出した雪に目を向けて、サンタを見たような顔をしている。手の空いた店員さんも何人かちらほら、客と同じように窓の外を見ている。
 カウンターに行き、ソイラテを一つ頼む。
 ラジオで流れた期間限定の栗のフラペチーノは今はない。
 あるとしたらまた来年。
 春が来て生き物が目覚め、夏に盛り、冬に備えて蓄える季節まではお預けだ。
 頼んだソイラテはすぐに僕の手元にやってくる。
 窓の席へ。
 外の見える席へ。
 走る車は見えず、歩く人もいない夜の世界。
 暖かいソイラテを飲みながら眺める。
 本でも持ってこれば良かったなと少し後悔しながらも、暖炉の前にいるような気分で眺める。
 一口一口、ソイラテは消えてゆく。
 それと同時に、春のような暖かさが心に溢れる。
 嫌な思い出はしばらく放浪の旅に出る。