寒さを忘れて

「今日はどこ行こうか?」
 朝日が登り、二人で焼いたハムとエッグを挟んだトーストを食べていると、向かいに座る彼女が期待を瞳に込めて聞いてくる。
「……家でゴロゴロしていたい」
 僕は素直に、朝目覚めた時から想ったことを口にする。彼女の瞳は期待から失意に変わっていく。それは昼から夜に変わるのが誰にもわかるように、わかりやすい。
「なぜ?」
 ドラマに出てくる刑事さんみたいに重い言葉。つい吹いてしまいそうになるが、僕は顔が変形するぐらい必死に抑える。ここで笑ってしまったら、暖かいトーストと一緒に並んでいるココアが離れてしまう。空腹と体が求める暖かさはまだ満たされていない。昼まで我慢するには、僕には辛すぎる。
「寒いからだよ」
 笑い声にならないよう、わざとらしく低い声を出す。平均的な男性の声よりも高い僕の声。違和感はバリバリだけど、そうでもしなければ抑えられない。
「寒いってまだ秋よ!休日よ!デートできるのよ!」彼女はハキハキと自分の主張を口に出す。拡声器がなくてもよく響く声。他人には鬱陶しく、僕には愛しく聞こえる。
「だって寒いもんは寒いんだ」
 秋、と言ってももう終わりが近く、少しずつだが確実に、冬はその冷たい姿を見せてきている。恋したように色づいた秋の葉っぱはすでに枯れて、土の中に混じっている。彼らの恋が実ったかどうかは僕にはわからないし、さほど興味はないけれど、秋の終わりが来ていることは知らせてくれた。
「あぁそうですかそうですか。もう結構でございますえぇ!私も冬眠しますよ!一生そうしてなさい!」さっさとトーストとココアを流し込むと、彼女は自分の部屋に早足で行ってしまう。寒さなんて忘れてしまうぐらいに顔を赤くして。
「……」
 ココアとトーストを交互に飲んで食べて十分が経つ。そろそろ機嫌が治ることだろう。リビングに置いてある茶色の引き出しを開けて、二枚の券を取り出す。映画の割引券。期限は今年中。手に持ち、彼女の部屋に向かう。中に入ると、ベッドではなく、部屋の中央、マットの上に置かれた柔らかいビーンズクッションに、日向ぼっこをする猫のように身体を伸ばして身を任せている。うつ伏せに、両足を小さくバタバタさせながら。
「ねぇ、僕が悪かったよ。映画のチケットあるから出かけよう」
「なんの映画のチケット?」
「なんでも観れるよ。公開している映画ならなんでも」
「……一人で行けば」
「君と行きたいな。僕は。お昼は寒いからイタリアンの、グラタンとかどう?君、好きだろ?」
「……」
 彼女は息を殺して、足をバタバタするのをやめる。沈黙が部屋を包む。ベッドの枕元に置かれた目覚まし時計の針がチクタクと時の進みを教える。
 もし、その時計の針が止まったら時は止まるのだろうか?時が止まったら、僕らは生きているのだろうか?僕らはなぜ時を感じるのだろうか?などとくだらなくも、真実のない答えをぼやーと頭の中で考える。沈黙はしばらく続く。風が窓を少し叩いた。早く決断しろと、囁くように。
「……決まったかい?」
「……」
 うつ伏せだった彼女は、ビーンズクッションから顔を離して僕を見る。
「一時間待って」
 ポツリと呟く。
「いくらでも」
 魔法が彼女を包む時間が始まる。邪魔者である僕は部屋を出てリビングに戻り、空になったけど汚れの残る皿をキッチンへ。蛇口を捻り、冷たい水を生み出して、その中に皿と手を突っ込み、洗い始める。一時間ほどすれば、これは見事に魔法を使いこなした彼女が出てくる。その姿はきっと誰よりも美しく、誰にも見せたくない姿だろう。付き合い始めて二年。同棲を始めて一年。初めの頃に比べたら、ズボラな姿を隠すこともなくなった。僕はそれを観て、どこか理想を壊された気分にもなったが、それ以上に自分のことを信頼してくれているという気持ちの方が勝った。
 カチャカチャとわざとらしく音を鳴らす。
 あと五十五分。
 僕は始めて出会った頃と変わらない言葉を口にするだろう。みんなそうだったのに、一緒に暮らせば暮らすほど口にしなくなるそうだ。随分と勿体無い。言ったところで損はないし、思ったことを口にできなくなるというのは牢獄にいれらているようなものなのに、わざわざ自分から入る必要はないだろ。僕は全くその気はない。そんなことをするためにここにはいない。出会った頃と変わらない言葉を口にするために、僕はここにいる。
「なんの映画観ようか?」
 廊下をドタドタと走っていく彼女に語りかけるように、僕は独り言を呟く。
 寒さも忘れて。