短編小説 マーマレードをもう一度

 夫に出会ったのは四十年前、自宅近くのバス停だ。当時の私は車がなく、あったとしてもそれは両親が仕事に使うもので、私自身のものではなかった。仕事場に行くには車で30分。自転車を漕いで行く気にはなれなかったので、バスを使うことにした。そんな生活を始めて一年経った春の朝、夫は私の前に現れた。私よりも一年ほど若く、若草のように逞しかった。髪は流行など気にせず、短く整えられて、真っ直ぐ。背中もも同じように真っ直ぐだ。服は青いジーンズに白の無地のシャツ。よく言えば素直、悪くいうば味気ない。名前は知らないし、近くに住んでいるのかもしれなかったが、私はその顔を知らなかった。半年ほど、夫との会話のない出勤という旅をした。私は毎朝同じ時間に、夫と同じバスに乗ったのだ。目が合うことはあったけど、会釈をするだけで私からも彼からも、その続きをもたらす言葉を出なかった。
 半年が経ち、秋が来て草木が紅く燃え始めると同時に、どこからがやってきた冷たい風が頬に挨拶をしてきた頃に、夫は私に始めて話しかけてきた。短く整えられた髪は少し伸びて、毛先をクルクルと曲げっている。当時流行った髪型だった。服も、ビシッとした青いワイシャツに、白の長ズボンに変わっていた。都会で成功した者のような格好をして「すみません。今度の日曜日空いてますか?」と緊張しながらも、暖炉の火のように暖かな声でそう言ったのだ。
 顔は知っていても初対面に近い。普通なら緊張、あるいは警戒するのが対応として正しいのだけど、私の顔は強張ることも、また針のように鋭い言葉も口から飛ばなかった。
 夫はよく、バスに乗る際にお年寄りの手を取っていたし、バスが来るまでの間、どこかの不届者か愚かな者が捨てたゴミをバス停で見つけてはゴミ箱に捨てていた。私は時折、無言でそれを手伝うことがあった。
 後から知ったことだが、あの行為は私に好かれたいと思ったからやったそうだ。神父に罪を告白する人のような顔をして、出先のハンバーガーショップで私に教えてくれた。
 私はそれが不快ではなかった。
 誰だって、誰か好きな人ができれば自分をよく見せようとする。好きな人でもない人に対してもだ。私も、毎朝自宅を出る際に仮面を被る。ありのままの私ではなく、他人に好かれる私の仮面を被って。人のことをとやかく攻めるほど、また不快に思うほど、私はありのままに生きてはいないのだ。

「いいですよ」
 私は迷うことなく、夫のデートの誘いを受けた。すると、夫はその場でトランポリンの上を飛ぶように跳ね上がり、そして信じられないものを目にしたような顔をして、しばらく呆けていた。海を渡り黄金の国にたどり着いた開拓者、もしくはジャングルの奥地に遺跡を見つけた考古学者のように。
「ありがとうございます!あぁ、ありがとうございます!それじゃあお昼ごろに、えっとそうだ。ご自宅に迎えに行きますね。そのまま昼食にしましょう。いいお店を、えぇ、あなたもきっと気にいると思いますよ」
 夫はしどろもどろになりながらも、今度の日曜日の予定を組み立てた。私は特に異論はなく、小さく肯定の頷きを繰り返した。
 そして日曜日の昼前、雲もなくこの上ない快晴な空の下、彼は自宅の前に、70年代の黒いマッスルカーに乗ってやってきた。太陽の光を反射して鈍い輝きを放つツーシータ。家族で乗るには不便だが、二人で出かけるには充分すぎる。自信満々の笑みで夫は私を迎えにきた。私は助手席に座ると「シートベルトをお締めください、お嬢様」などと役者のようなセリフを言って、アクセルを踏み、私たちの乗った車は前に前に走り出す。マフラーからは車の息吹が溢れていた。スピードは法定速度。急なハンドル操作もなく、スムーズな運転。木と木の間に吊るしたハンモックの中に寝そべるように気持ちよくて、私はデートということを忘れてついついウトウトしてしまい、結局途中で寝てしまった。通勤中のバスで寝たことは一度もなかったのに。不用心といえばその通りなのだけど、私の中には不安という感情はなくて、むしろ喜んでいた。デートなんて学生の時以来だったし、きっと心のどこかの片部屋にいる私が、夫のことを好いていたのだろう。
 夢の中で、小さなウサギと追いかけっこをしていると、いつのまにか車は、私の自宅から1時間ほど離れた市街にいた。自分には縁のない高層ビルが並び、流行というおしゃれに身を包んだ人々が歩く世界の道に車を停めると、夫は助手席のドアを開けて、私の手を取り、私を車から下ろした。手が震えていたということはよく覚えている。それは喜びなのか、それとも顔しか知らない私に怯えていたのか。そのことに関しては時折、聞いてみたけど答えはなく、ただ恥ずかしそうに笑って誤魔化すのだった。
 私たちは車を降りて10分ほど歩き、どこかの片田舎にありそうなダイナーに入った。そのお店はとてもとても高層ビルの世界には似合っていなかった。まるで調和性はない。青い空のどこか一部だけ赤になっているように不自然だ。しかし、お店から私に伝わる匂いを感じると、そんなことは些細なことで、ひどくどうでもいいことだということがわかった。
 お店には人が大勢いた。野球帽を被った少年。髭を長く白く伸ばした老人たち。フランネルをきた若者の集団。そこにいる人はその不自然な場所に、幸せを見つけていた。
「入りましょう」
 夫は優しくドアを開けた。私は幸せの中に、身体を混ぜたのだ。

「おすすめがあるんです。それでいいですか?」
 私に笑顔でそう言った夫。私はその時食べたいものが特に頭に浮かばなかったので、夫のおすすめを頼むことにした。
 しばらく、カウンターの席に二人並んで待っていると、店員さんが私と夫の前に白い皿を置いていく。皿の上には程よく焼けたソーセージが二つと焦げのないきれいな卵の上にはカリカリに焼けたベーコンが乗っている。トーストが二枚。マーマレードが塗られている。
「さぁ、食べてみてください。美味しいから」
 正直、それはどこでも食べれるもので真新しさのないものだった。だけど、私には、それが宝石の宝箱のように見えた。
 トーストに手を伸ばし、一口。爽やかな柑橘の味は、今もよく覚えている。それからは夢中になりながら、クリスマスディナーのようなご馳走様を一心不乱に食べる子供のように食事した。手にはトーストの粉が付き、口の周りはケチャップやマーマレードで化粧した。
 食べ終えた後、自分の行いに恥じらいを感じたけど、横で一緒に食べていた夫も、同じような姿になった。
「ケチャップが口についてるわ!」
「あなただって、マーマレードが!」
 ダイナーの中は騒がしかった。野球帽の少年は一緒にいた母親に駄々をこね、老人たちは昔話に花を咲かせながらトランプをやっている。フランネルをきた若者は、どこで女の子を引っ掛かけるか?どのように口説くか?を真面目に討論にしている。誰も彼もが私を知らず、彼らも私のことなんかちっとも知らない。
 しかしその時、私は夫と一緒に、先行き真っ暗な人生の中で、幸せを見つけお互いに感じあう彼らの仲間になっていた。
 それが、私と夫が初めてのデートだった。

「あの頃のあなた、素敵だったわ。今もそうだけど」
 椅子に腰掛けた私は、一つの写真立てを持ちながら、声を漏らす。写真の中の夫は髪は白く、出会った頃よりもずいぶんと痩せている。顔の皺も増えて、若さという時間はもうない。それでも、あの頃と変わらない笑顔で私をみている。もう二人で、あのマーマレードで化粧はできないけど、思い出は色褪せない。
「……あら、こんな時間」
 リビングの壁にかけられた木色の時計を見ると、時刻はお昼を回ろうとしていた。
「遅れてしまうわね」
 写真立てを元の位置、窓際に置かれたタンスの上に戻し、その隣に置かれた鍵を手に持つ。70年代マッスルカーを呼び起こす鍵。今は私が彼の主人だ。
 玄関に向かい、靴を履き、扉を閉めてガレージに。ガレージではあの頃と変わらない彼が静かに私を待っていた。
 助手席、ではなく運転席に。鍵を入れ回すと、彼はブロロー!と目覚める。
「さぁ行きましょう」
 彼に、ここにはいないが私の中にいる夫に声をかけて、私は道路を走り出す。
 あの頃と変わらずにあるダイナーに。
 マーマレードを食べに行くため。