短編小説 海が好きだ

幼いころ、私は海で溺れかけ、あの世に行きかけたことがある。

 波が押し寄せて、私の体を岩に打ち付けた。何度も何度も私を打ち付け、私の体に岩に付いていた貝が突き刺さる。しばらくすると波は止んで、私は沖の方に流された。子供と大人の泳ぐ場所を分ける境界線の縄に必死にしがみついたのを、今でも覚えている。私はその近くで泳いでいた女性に助けられた。必死に、縄にしがみつく私を見つけて、浜辺まで運んだくれた。お礼を言いたいが幼い頃なので顔も名前も覚えていない。今、生きているのかもわからない。ただ、生きていられるのならお礼を言いたい。ありがとうございます、と言いたい。

 私は浜辺に着くと母に抱き着き、わんわんと泣いた。その後、母は消毒液を使いながら私の体に刺さる貝を引き抜いた。あの体験は二度とごめんである。とても痛いのだ。

 私はあの時、死を初めて感じた。自分は海に……自然には勝てないのだと理解した。

 だが私は次の年も家族と海に行って泳いだ。普通ならトラウマが残って泳げなくなるもんだ。水を怖がってもおかしくない。しかし、私は平気だった。お風呂の湯の中に顔を沈めても怖くなかったし、プールの授業の時も怖くはなかった。

 私は海が嫌いにならなかった。

 溺れかけたのは海のせいではなく、自分の考えの甘さが招いたことだ。海は私を殺しに来たのではない。私が勝手に泳げない場所に行って、死にに行こうとしただけなのだ。海に罪はない。だから、私は海が嫌いじゃない。今思うと、そう思っていたのかもしれない。小学生の時の自分がそう思ってたのかどうか確信は持てないが。

「おい!そろそろ行こうぜ‼」

 そんなことを考えながら海を眺めていると、一緒に旅行に出かけている友人が私を呼ぶ。海の近くに来たから、私は海が見たいと言った。友人は顔を少し歪めるも、私の願いを聞いてくれた。友人は景色が好きじゃなかった。田舎に住んでいるから、田舎にある観光地を見ても特に何も思わない。海も何も思わない。紅葉狩りに行こうよと言ったら、近くに山に紅葉があるのに行く必要があるか?と言う。そのことに関して文句を言う気はない。価値観は人それぞれだから。ただ、たまに頬にビンタをしたくなる時はある。

「うん、今行くよ」

 私は海に背中を向けて友人の元に向かう。

 向かう途中に一度だけ振り向いて、「また来るよ……」と心の中で呟く。

 海はただ、ザァーザァーと波の音を立てて、潮の臭いを運ぶ。

 私は波の音と潮の匂いが好きだ。

 私は海が好きだ。