街散歩

駅を出て北に向かえば喧騒が消えた。
 同じ街なのに、北の坂を上げれば風の音と鳥の囀りがよく聴こえ、車の音は遠く遠く耳を掠めるくらいだ。まるで時の流れが止まったような気持ちになるけれど、長い長い坂道は綺麗に塗装されており、道中にあった大学には高校生ぐらいの男女が訪れていて、時の流れを教えてくれる。
 ここは静かなのだ。
 南の方は船が慌ただしく行ききして汽笛を鳴らしているのに、北の街はゆっくりとしている。急な坂道を、赤いニューバランスを履いて登っていく。頂上付近には神社があり、その横には風見鶏の館があった。
 神社でお参りと、遠くにいる人の病魔を祓えるように多めに小銭を賽銭箱に入れた。
 そのあとは境内にある紫陽花の花を鑑賞したあと、僕は風見鶏の館を訪れた。
 中に入ればこれまた時の流れが止まったかのような気持ちになる。木の匂いが強かった。僕が生まれるずっと前の木の匂い。この館が生まれた時の神戸を僕は知るわけもなく、口伝やモノクロ写真でしか知らない。もうその時代に生きていた人は皆、ここにはいないのだ。匂いなど知る由もない。それなのに、故郷を訪れたかのような穏やかな気持ちになるのは何故だろうか?この屋敷の木は死んではいない。今も生きて、歳を重ねている。クーラーだってある。最新式とは言わないが、古くはない。そうだ。何も止まってなどいない。それなのに、タイムスリップした気持ちになるのは静けさによるものなのだろうか?不思議なもんである。
 屋敷をぐるり、と一方通行の順路を歩く。
 軋む床。
 古びた家具。
 そして、私の好きなキャラクターの紙人形。
 誇り高き騎士王。赤い弓兵。ケルトの戦士……。
 広い屋敷のあちらこちらで彼らが向かえてくれる。観光客の女性が「何かのイベントなのかしら」と言っていた。僕はそれがなんなのかよく知っているけど、人見知りのため、教えることはできなかった。
 気をよくして屋敷を出て、僕は今度は坂を下る。静かさはだんだんと遠くなり、今度は喧騒が耳に響く。
 車が絶え間なく走る道路。
 歩く人の行き音。
 北と変わって、南は騒がしいぐらいだ。
 三ノ宮センタープラザーの地下に向かい、昼飯を食べようとした。しかしどこも満席。和食、中華、イタリアン、ベトナム……食の万国博覧会を大賑わいだった。仕方なく、時間をずらそうと、地下から地上二階三階、ここにきた時はいつも寄る模型屋に向かった。地元にはない模型が多く、道具も多い。しかし、ここに来る時はいつも電車だ。自宅から白鷺の見える駅まで向かい、そこから快速に乗って神戸に行く。大量に買うことはできない。一通り見渡し、美少女プラモに目を囚われながらも「部屋に置き場所がない」「いやいや予算オーバーなんだなこれが」と最もらしい言い訳をして諦めた。部屋には模型が約70体はある。姉曰く「なんか儀式する部屋見たい」とのことだ。
 自分でもそこまでハマるとは思わなかったのだ。そこまで好きになるとは思わなかったのだ
 子供の頃は物事に関心が薄く、自分は何をしても人並みにはできないアホだと思っていて、物を欲しがったりしたいことを見つけてもやることをしなかった。
 だけど、今は違う。
 模型作成以外にもやりたいことがたくさんあり、少しずつだけど始めている。
 人の性格は一生変わらないと、言われたけど、なんだかそれは単なる嘘にしか思えないもんだ。
 模型の購入を諦め、センタープラザを出て西に向かう。商店街を歩き、肉まんの誘惑に負けず南京町を抜けて、ポートタワーに向かった。
 赤い外壁で、夜には神戸を照らすポートタワー。 
 神戸に来た時は必ずと言っていいほど訪れる。
 明けの明星に旅立った観測員が、侵略ロボットの戦った場所なのだ。
 だけど、残念なことにその…改修工事中だったのだ。
 美しい赤い外壁は白い布で隠されていた。
 すっかり忘れていた。
 母に教えられていたのに。
「まぁそんなこともあるよね」と自分の馬鹿さに苦笑して、センタープラザに戻った。戻った頃には昼食時を少し過ぎていたので、客足は多かったが満席ではなくなっていた。中華そばのお店に入り、中華そばとチャーハンを食べた。本当はざるそばとカツ丼が食べたかったけど、そういったお店は家族席が多く、一人席は案外少ない。一人で四人分の席を使うのは気が引けたのでやめたんだ。
 腹を満たしあと、また街を歩く。
 北の町とは違う騒がしさ。
 どこからともなく沸いてくる人人。
 不快に感じないところを見ると、自分はどこでも住めるような気がした。
 三時を知らせる鐘の音を聞いて、僕は電車に乗り、帰路に着いた。
 明日からまた仕事で憂鬱に悩まされる。
 揺れる電車の中、窓の景色を見ながらそう思った。
 そして、憂鬱な日々が終わればまた、今日のような休日に、心を弾ませる。
 それの繰り返しだ。
 今日のような休日がないと困るのだ。
 そうじゃないと、生きている気がしないのだから。